ガトリング梅しばの書きなぐり帳

Twitterに吐き出すにはちょっと長いことを憂さ晴らしに吐き出します。 言いたいことを吐き出すだけのブログなので、正解不正解とかありませんし反論とか議論とか同調とか求めてないです 情報発信を目的としていない、ホントにただの憂さ晴らし個人ブログなので、気をつけてはいますが情報の足りないまま検証ゆるくて思い込みで書いてることもあるかも。ご理解ください。

Twitterで表現の自由について騒いでる人が何人それについて調べた上で話してんのってはなし。

いきなりでかい愚痴を投下すっぞオラァ!!!!!!

ずーっとネットに抱えてた愚痴。

表現の自由言論の自由っていうのは、公権力が表現の内容をチェックして発表するのを禁止したり制限したりすることは許されないよって事であって、国民は悪口だろうが何だろうが何を言ってもいいっていう権利を保障することではない筈なんだけど、そういう風に思って免罪符のように表現の自由!って言ってる人結構いるよね。
…って言いながら私が違ってたらごめん。
まぁでもそれが保障されてたら誹謗中傷で警察のお世話になる人きっといないよね。多分。ね?

 

次。
他人を傷つける発言がいけないというのはシンプルに倫理や道徳の話であって、法律で扱う名誉毀損って言葉も基本的には社会的な名誉の話。ほぼ。一応調べた上で言ってるけどこれも勉強不足だったらごめんなさい。

 

あと、意見・批判・誹謗は全部別物ってこともずっと気になってた。

○意見はその人が持ってる考え。
○批判はちょっと難しいので辞書の内容貼っちゃいます。 

 1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

 2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

 3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

…まぁ3は一般に使われる場面はほぼ無いでしょうから、1と2が主ですね。
文章内の単語の意味ももう少し細かく考えてみます。

1はよく調べた上で考えたり色々な角度から物事を考えたりして(あまり深く考えていないと検討とは言わない)判定や評価をすること。
2は人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべき(ゴールの方向が解決や改善)であるとして論じること。

だから判定や評価をする時によく考えないでパッと思っただけのことを言っちゃうとそれは批判にもなっていないし、指摘したり論じる時も正すっていう行動(実際に解決や改善をしてもらうことがゴール)が目的で行われてない場合は批判じゃなくてただの感想発表会なんですよね。

 

続きます。

 

○誹謗は悪口。
○中傷は根拠の無いことを言いふらして名誉を傷つけること。
○主張は自分の意見をでっかい声で言うこと。

 

ここまでがあんまり区別出来てない人が結構いるなぁという印象です。

 

「私はこう思う」という考えそのものが意見で、「これは(こういう所がこのように)良くないから(このように)改善すべきだ!」と解決や改善という目的を持ってよく調べて考えた上で声を上げるのが批判で、「こんな事するとかバカなの?」を言う(ネットに書く)のが誹謗。

だから批判というのは正しく行われていれば誤った事をした人の人格を否定して責める事ではないので、この原則から外れていなければ批判自体には問題無いはずなんですよ。はず。

「これは(こういう所がこのように)良くないから(このように)改善すべきだ!」は行動の解決・改善を求めているので批判だけど、
「どうしてこんなことも分からないんだ?頭おかしいんじゃないのか!?こんなのは良くないに決まってるだろ!今すぐやめろ!(こうしろ!)」っていう人格を否定する書き方になっちゃったらいけないんですよね。

 

でも「そういう表現を使わなくても批判することで結果として人格否定することになるだろ!」という方もいます。
これも難しいですが私は違うと思っていて、

まず人格否定という言葉は人格を否定することですよね。
ここで否定とはどういう意味かを確認しますが、否定とは
「そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。」です。

批判だって、そうじゃないだろ!って怒って声を上げているんだから一緒じゃないか!と思われているかもしれません。

でも大事なのはスタートの感情じゃなくて伝え方のほうなんですよね。


そうじゃない!って思った時には確かに怒りの感情があった可能性はありますが、

「これは(こういう所がこのように)良くないから(このように)改善すべきだ!」と解決や改善という目的を持ってよく調べ考えた上で、具体的に根拠を示しながらその相手が解決・改善出来るように伝えたり声を上げる、というのが批判。
こういうアホな事しちゃうお前マジ無能!みたいな事や表現は伝える側は一言も言ってないし、無能なことに対して反省しろだなんて求めてもいないわけで。
っていうか無能ってそれお前が勝手に思っただけやんけっていう。

そして「これは良くないから改善すべきだ!」と具体的根拠もその相手が解決・改善できる道も示さず、ただただ良くないから良くして欲しいという感情をぶつけて相手の意見や行動に対してそうではないと打ち消している、というのが否定ではないかと私は考えています。

 

例えば「カビが生えないようにしたいからお風呂出たら毎回換気扇回しといて欲しいな〜」と「カビ生えるだろ!お風呂出たら毎回換気扇まわせよ!」と言われたら。

 

前の言い方では「(自分はあんまり気にしてなかったけどこの人はカビが生えないようにしたかったのか…まぁ確かにその方がいいよね。嫌だなって思わせちゃってたかもしれないな。今度から気をつけよ。)分かった〜」と納得して返せると思いますが、
後の言い方だったら「(こっちは気にしてねぇのになんでそっちが嫌だからって合わせなきゃいけねぇのよ!?命令される筋合いなんかないだろ!)……。」と、嫌だという気持ちをぶつけられても言われた方は解決してあげる理由もなければ不快感しかないと私だったら感じます。
少し落ち着いてからそんなに嫌だったなら少しくらいは協力してやってもいいかな…とか、今後もこんな感じでグチグチ言われるのめんどくさいしもう言うこと聞いとけばいっか…と折れることもあるかもしれませんが、言った方は快適になったけど言われた方が我慢したおかげでおさまった形なので良くは無いですよね。

 

あと、反省しないといけないな…という自分が持った感情と相手から受けた批判という行動を結びつけて気持ちの処理をしようとしてしまう人もいると思います。
それをやってしまうと可哀想だねって同情してくれる人が現れて自分は楽になれるかもしれないけれど、相手からしたら「別に行動の部分以外反省して欲しいなんて、そんな事は言ってもないし思ってもないんだけど!?」っていう変なことになってしまいます。
同情する人は可哀想だって思う人をなかなか疑わないでしょうし、なんでこんな事になってるかを自ら順を追って事実を確認しに行くことも殆ど無いでしょうから、このことによって批判した人は言っても求めてもいない事で悪者にされてしまうことがあると思います。

大人に注意されて泣き出した子供を見て他の大人がワラワラ集まってきて、なんで泣き出したか見ても確認してもいないのに注意した大人に対して「こんな小さい子を泣かすなんてひどい!」って怒ってるのを見た事があります。
そこからどうなったか詳しく覚えていないので仮のケースとして話を進めちゃうんですが、泣いている様子だけを見て怒る人もいれば、「お店の人に怒られて怖かった…」と子供が言っているのを聞いて怒った人もいるかもしれません。
でも蓋を開けてみれば注意する時の内容や言葉遣いは悪くなく、子供が知らない人に突然注意という形で声をかけられたことに驚いただけで、注意された内容に納得出来なかった訳じゃなかった可能性もあります。
その場合は驚いたのと自分が悪かったなというマイナス感情を結びつけて子供が店員さんのせいにして気持ちを処理しようとしていることになるんじゃないでしょうか。
まぁ、でもこれはあくまで注意の内容や表現、言葉遣いが客観的に見ても悪くないことが前提なので毎回クリアされる条件ではないですけどね。

 

あと、反省しろ!謝罪しろ!って言う人の存在のこと。
冷たいことを言っちゃえば、批判する側は、何故ダメだったのか理解して結果として解決・改善して今後繰り返さないでくれればどのように反省するかなんてのは本来どうでもいいはずなんですよ。
反省してる姿を見たがってる人はそもそも解決・改善がゴールじゃなくて優位に立ちたいだけの人じゃないですかね。

 

それと、直接関係はない近いだけの違う話ですが「あの人はこう言ってたけど私はそうは思わない。私はこう思うんだよな!」ってデカめの声で言ってるだけで「その考え方と行動は間違っている!こうするべきだ!直せ!」とは言ってないんだったらそれは批判じゃなくて主張なので、全然別物です。(行動も考えも正すことを求めてないので)

 

ここまで「批判とはなんなのか」「批判と否定の違いについて」の私の考えをダラダラ書いてきましたが、大変ややこしいことにその対象が国か企業か個人かによっても繊細さがまた違ってくると思ってるんですよ。

 

国に対しては自浄作用っていうのは必要なものでいいと思います。
そもそも国の問題はこの国で暮らしてる人は当事者なので。(この国で暮らしてない奴に論じる権利はない!ということではない。あくまでざっくりと言ったまで。)

 

企業とかも社会的な責任っていう部分で基本的には良くしていかなければいけないものなのでここもそんなにかな、と。(それ突っかかるのか…?と個人的に思う時は最近結構ありますけど)

 

一気に難しくなると思っているのは規模が個人レベルになった時です。

 

まず個人の時の話に入る前に私が感じている国、企業、個人全てのパターンで基本的に変わらない問題をざっと書きます。

・問題そのものを正しく理解・把握していない人がいる(全体のうちの一部しか把握していない人も含む)
・情報を探さないで主観だけで根拠の無いことを書いてしまう人がいる
・情報の正確性を確かめずに誤った情報をもとに考えて広めてしまう人がいる
・体験をもとに考える人も環境や状況によってルールが違う可能性があるので、その体験が必ずしも全国や全世界規模の共通ルールで信頼出来るものとは言えない
・意見や批判に誹謗になる言葉も加えてしまう人がいる
・そもそも意見や批判ですらなく普通に誹謗中傷する人もいる

こんな感じでしょうか
既に無理ゲー感しかないですね。

 

次に個人レベル(規模)の場合、国や企業が相手の場合より難しくなりやすいと思っている点です。

・問題に対する前提が明確ではないケースが多い

 

いきなり違う話をぶち込みます。

意見の話に立ち返りますが、意見ってバラバラで当然なものですよね。

例えば「片付けが苦手な子供が自分から進んで片付けできるようになるにはどう指導したらよいか」というテーマで意見を出すとします。

・根気よく一緒に片付けながら片付け方を教えていく
・ゲームのように楽しいルールを作って遊びのようにしてみる
・片付けが出来たらご褒美をあげる

正しさや如何に有効であるかという部分は一旦置いておいて、私一人でもパッと挙げたら2.3個すぐ出てくるわけです。
複数の人から意見を集めれば概ね一致する意見はきっといくつか出てきますが、全ての人が全く同じ意見を同じ数持ってくることはありえないですよね。

更に人によっては
・自分から片付けを出来るようになることは必ずしも必要ではないのではないか

と言う人もいるかもしれませんし

・今まで片付け出来なかったのは親の責任だ!
・無理矢理片付けさせようなんて親のエゴだ!

なんていう意見じゃなくてただの感想〜根拠の無い決めつけを添えて〜をぶつけてくる人もいるかもしれません。
(自分で書いといてアレだけど片付けを強制するっていうエゴってどういうエゴかな…笑)

そして、このテーマ自体も何を前提や条件にするかで変わっていきます。

・何歳の子供に片付けをしてもらいたいのか
・片付けをさせたい時の子供の環境や状況

ちゃんと挙げればもっとあるんでしょうがこれだけでもだいぶ違いますよね。
大体の人は多分5才と小学5年生に教えるんじゃ教え方を全く同じにはしないんじゃないかと思います。
国や企業の話ならメディアがまとめて情報を出してくれますが、個人レベルの規模だとここを自ら一々確認する人は殆どいないと思います。

それがさっきの「問題に対する前提が明確ではないケースが多い」ということです。

 

では個人の方が難しくなりやすいと思っている点の続きです。

・まとめてくれるメディアの存在がないので問題そのものを正しく把握しづらい

・個人だと批判に対して正しいかどうかを公に信任されてジャッジできる存在がいない

・人によって価値観や人生観が違い、倫理や道徳の観点から決める「正しい」が共通ではないので、そもそも誰もが納得する「正しい」が存在しない

 

という感じです。
最後にそもそもの問題が出てきましたが、そこに正しいが存在しないということは既に批判が行われるべき場所ではなくなっていて、それをやっちゃうとただの自分の価値観の押し付けになっちゃう訳です。
正しいがないので自浄作用も存在しない。

 

もっともっと…うーん、人によっては身も蓋もねぇな!って言われちゃうかもしれないんですが、私の中では「そもそも正しくなくてもいいんじゃないの?」っていう話でもあります。

善良でありたい気持ちは誰しも持っていると思うし、それを追い求めるのも勿論いいとは思うんですが、自分が善良でありたい気持ちと他人が善良であるべきかはまた別の話なんですよ。
他人も善良であるべきかは社会的な観点からみればそりゃその方がみんな気持ちよく過ごせていいよね〜ではあるんでしょうが、社会とはデジタル大辞泉曰く「人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう。」ってことらしいですから、バラバラな個の存在である人間がぎゅっと集まって暮らしてる世界って考えたら、現実的に価値観を揃えるのは無理な話で…。
だからみんながなるべく快適に過ごせるように社会においてのマナーとかモラルっていうすんごいぼや〜っとした基準や考え方みたいなものがある訳ですよね。


「そもそも正しくなくてもいいんじゃないの?」なんてさっき言っちゃいましたけど、ルールじゃないからマナーやモラルなんて無視してもいい!って言いたい訳じゃなくて「マナーやモラルっていう基準や考え方は個人の良心に依存してる明確じゃないものだから、これが絶対正しいですというジャッジが存在しないし、正しいというジャッジが存在しないから他人を正しいかどうか自分も決められないし、そうなったらもう自分なりの正しさに沿った行動と協力的な気持ちが全てなので、他人軸で自分は正しくないかもしれないとビビったり自分軸で他人を決めて腹立てたりすんのやめたほうが楽かもしれないな?」っていうことを言いたかったですよね。ええ。

 

あと、自分軸で他人を決めて腹を立てるってところから話題を引っ張ってきてまた話逸れちゃいますが、ムカつくことは許しても許さなくてもいいと思います。
何かを許せない自分に対して情けなくなったり嫌な気持ちになる必要は全く無いです。
許すべきって思っちゃうと「私は許してやるのに何であいつは他人を許せないんだ!」とか「自分の言い分がきちんと理解されればきっと許される」みたいな考えに知らず知らずのうちにどんどん寄っていってもっと辛くなっていくんじゃないかなと。
まぁ、あと相手めっちゃ怒ってるけどどう理由を説明されてもどう考えても自分が何が悪かったのか本気で分からない時とかもあるし、そういう時にまぁしゃあないよなって早めに思えるかは結構さっきの許しても許さなくてもマインドがあるかどうかで違う気がしてます。

あと人によっては単純にどう考えても許せないレベルの怒りを抱えることがあるよねってこと。
例えば通り魔にあった被害者に犯人許してあげなよって言えるのかなと…
まぁ流石にこれは極端だけど、なんでも他人に許せって言っちゃうのは他人がどれだけ怒ったり傷ついたりしてるか理解しないで言ってる訳だから(話聞いたって本人じゃない時点で理解しきれるものではない)、ちょっと優しくないなと思ってます。
許せないから仕返しをしても良いのかと言われてもそれはそれでちょっとアレだけど。
アレ、で片付けちゃうのもアレなので厳密に言うと私の考えは「仕返しはしてもしなくてもいい。ただ、余程非人道的な扱いを受けたりしない限り、私は倫理的なブレーキで殆ど仕返しはしないだろうし、できれば他の人にも簡単にはして欲しくないと思っている。」です。
ちょっと過激な言葉を含んじゃったので面倒くさがって先に言っておきますが、私は他の人のことは知らんし、私の考えを受け入れてくれなくていいので君の考えも私に押し付けないで欲しい…です…
(いろんな意見を聞くのは好きなので、自分はこう思うんだ〜って感じのは歓迎。それっておかしくね?こうじゃね?みたいなのは、おかしいかどうかは勝手に君が思ってるだけで殆どの場合何の根拠のない主観で言ってるだけでしかないので常識でも正解でもないです。やめてほし。)

うあ〜っと結構長く書いてきましたが力尽きました。
なんかキリも悪くない気がする。

Twitterって昔はチラ裏だったから楽しかったんだよね。
mixi全盛期を体験してきたBBAなので最近のネットには急に疲れてしまったんだよ。

ここまで読んでくれた変わり者の方、ありがとう。
一緒にmixiやろっか。